プロレスにおける怪しい魅力とは②

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こんにちは、escapeです。

前回の記事では、私なりのプロレスの魅力を伝えました。

選手をベースにどのような流れになっているかを今回はお話しましょう。

この時代は、リアルタイムでは当然観ていませんが基本プロレスは、力道山

からの流れをとっています。当時の団体は、日本プロレスでありました。

外国人対力道山というのが基本の構図で、人気を博したのも敗戦後の中

外人を倒していく事が、共感され一大ブームになったのではないでしょうか。

そんな中、有名な試合として「巌流島決戦」という事で、力道山対木村政彦

のカードが組まれました。日本人同士での戦いという事もあり大いに盛り上がった

ようです。力道山は、ご存知の方も多いでしょうが、木村政彦というのは、柔道の世界で

15年間不敗であり、当時グレイシー一族の祖父も倒していたり実績でもありました。

力道山ともタッグを組みプロレスの興行を行っていたりもした。力道山は、相撲出身では

ありますが、引退後プロレスラーに転向しており、木村とは立場は大きく違っていました。

木村はあくまでも柔道家でもあり、柔道の看板を当然背負っているのです。

この試合は、ブック的には「引き分け」という取り決めがなされていました。しかしながら、

試合途中、木村が力道山へ金的が入りそこで、逆上した力道山がその後、木村を滅多打ちに

してしまいKOという内容に変わりました。私も動画などで観たことがありますが、明らかに

前半はプロレスをしているのですが、途中から雰囲気が一変し蹴りと顔面への殴打などでノック

アウトになりました。前回の記事にあるように、基本プロレスは勝敗が決まっているのですが

たまに、このような「セメント」とよばれるような真剣試合に変化する事があります。

当然、プロレスを片方はしようとしているところで、このルール破り的な事をされると試合には実質

ならなくなります。よく、力道山は「切れやすい性格」と言われ、それが試合にでてしまったので

しょう。また、この試合の組まれた原因は木村氏が新聞で「力道山のプロレスは八百長」という

発言があった事から試合に発展したようなので、どこかでこの発言自体に力道山が「恨み」を抱いて

いたのではないでしょうか。当時は、まだプロレスを盛り上げるためのリップサービスという概念

なかったでしょうから、ある意味の木村氏の本音でもあったのではないでしょうか。

力動山の弟子として、ジャイアント馬場アントニオ猪木がいました。

力道山は刺殺され、その後日本プロレスは馬場率いる「全日本プロレス」猪木率いる「新日本プロ

レス」に分裂をしていきます。当時、他の団体もなくはないですが結果この2つの団体に集約されま

す。当時はプロレスの興行というのは、テレビ局がついているかどうかで放映権料も入ってくる部分

で団体経営が大分変ってきます。後にもやはり、テレビ局がつかず崩壊した団体はいくつかありま

す。猪木も当初はテレビ局がついておらず、設立1年で多額の借金ができたと言われています。

全日本プロレスは、「日本テレビ」がついており新日本プロレスは「テレビ朝日」でありました

。一方、馬場の方は外人レスラーを中心に従来のプロレスを展開していました。ただ、当時は猪木の

1枚看板という事もあり、選手層の厚さなどから馬場の全日本の方が人気を博していました。

猪木は「ストロングスタイル」という事で格闘技色を出し、全日本プロレスとの差別化

はかっていきました。猪木の方は、馬場を批判的に捉え、こちらの団体(新日本)が本物のプロレス

だとしていました。後に猪木も自分がしていたような事を新日本の離脱者にされ、結果歴史は繰り返

すようなところもあります。猪木には、もう1人「新間寿」という最初はマネジャーでもあり後に

プロデュサー的な人物がいて、この人が「過激な仕掛け人」と言われ色々なビッグマッチを実現させ

ていきます。最初は、当時国際プロレスのエースであった、ストロング小林を新日本に引き入れ、

力道山と木村戦以来の日本人トップ対戦という事で注目を浴びました。力道山の件もあり長らく

日本人のトップ同士の対戦は避けられていたようです。

プロレスでは、度々他団体との交流戦みたいなものが盛り上がります。

お互い団体の看板を背負ってやっていくようなものですか

ら非常に人気が高くなるカードです。しかしながら、まだこの時期はテレビや

色々団体の関係もあり、簡単にマッチメイクできるものではありません。

従ってストロング小林も団体を離脱した形をとっています。

この試合は、まだ私が小さい頃の試合なのでリアルでみたわけ

ではありませんが、今でもこの試合が名勝負とも言われています。当然、会場の蔵前国技館は満員と

なり、猪木の勝利で幕を閉じました。この辺から猪木の商品価値があがってくるようになりました。

そして、猪木自身も「プロレスこそ最強の格闘技」をうたい「誰の挑戦でも受ける」というような

アドバルーンをあげていきました。馬場に勝っていくには、過激にしていく流れが戦略だったの

でしょう。

そして、更に「異種格闘技」路線に入っていきます。他の格闘技で実績のある人を呼び、闘うので

す。当然男の子であれば「誰が最強なのか」という夢をくすぐるところはあり見事にこの戦略

もはまります。

しかしながら、この異種格闘技というのは本来ルールがそもそも難しくもあるのです。

野球とサッカーを一緒にやりましょうという様なものです。プロレスのリングでやること自体

通常はプロレスが有利になるようになっています。最初の相手は柔道で金メダリストのウィリアム

ルスカでありました。これは、力道山もですが柔道家と試合をする際にそもそもレスラーが柔道着を

着ていない段階でプロレスが有利になります。この後も、柔道家とした試合でレスラーは基本

柔道着の着用をしていません。そのような事もあり猪木の勝利で終わりました。

実は異種格闘技戦も1試合を除いては、ブックがありある程度の勝敗決着は決まっていたようです。

いずれにしても、この試合からこの異種格闘技戦というのは大人気になり、私も当時小学生ほど

でしたが、真剣に観ていた頃でもあります。

そして、伝説の一戦「猪木対モハメド・アリ」戦が組まれるのです。ただし先程の話のように

この一戦はブックなしという事になっていました・・。~つづく~

 

 

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