20代の苦悩【ブラック企業激闘編 完結】

天邪鬼な考察
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こんにちは、escapeです。

コロナの自宅療養期間も終え、ようやく仕事の方へ本格的に

復活しました。正直、症状が収まったここ数日間は何だったんだろうか・・と

つい思ってしまう今日この頃です。

そして、20代のブラック企業体験談も久々に完結編としてアップと思います。

前回の記事はこちらから。

ようやく、2年という研修期間を終え代理店室への移動となりました。

ワンフロアに席が200席ほど用意されており、毎週月曜日のみの出勤義務では

ありましたが、大体多くて3分1から半分ほどの空席状態ではありました。

普段の日となると、1割ほどの人しかいないといった状況です。今までががんじがらめに

拘束されていた分、急に解き放たれると気が大きく緩みます。

ここでは、ほぼ自分との戦いのような流れとなり、いずれにしても保険の営業というのは

焼き畑農業的であり、常に新規を追い続けていかないと収入が減少してきます。

しかし、この代理店室の大きな罠は「副業」に頭が向いてしまう所です。

お金はないけど、時間はあるという状況になった時につい色々な副業に手をだしてしまい

がちでもあり、どちらか本業かわかないほどそちらにシフトする人も多くいます。

また、当時は「トラタヌ」と言ってましたが、とれもしない大型契約や副業見込みの

収入の話が会社のあちらこちらで耳に入ってきます。まるで、どこかの詐欺集団にいる

かのような錯覚に陥ることも度々ありましたが・・。

人に会っていた分情報だけは、やけに入ってきており私も怪しいものを除くと色々よく

わからないものに飛びついていた時期もありました。そうしていく事で、本業の方が

衰退していく事にもなっていきます。また、副業ではないですが収入が厳しくなると

アルバイトに手を出すこともしばしばで、よもや社会人でアルバイトをするという事

もイメージしていませんでした。それでも、せめて多少でも本業はと思い深夜の

アルバイトと掛け持ちしながら営業をしていた時期もありました。

名刺にはファイナンシャルプランナーなどと書いておきながら、自分の生活の

ファイナンスが綱渡り的な状況でもありました。

私自身、子供も産まれたばかりで生活費もままならない中、深夜のアルバイトに精を出す

姿は情けなくもあり、当時は複雑な心境でした。そんな中、もう少しベースになる収入を

構築しないといけないという思いが常に頭をよぎりました。代理店室に行けば、バラ色までは

いかないものの、明るいイメージを想像していた自分としては、現実とのギャップに悩まされ

ました。

そうした中、営業活動をしていると大きなチャンスに巡り合います。

ある程度、大型契約が見込める案件でもありました。それと引き換えではないですが、

社長から「君もこれを開業しないか」と逆営業的にも持ち掛けられました

そんなに深くも考えず、仮に失敗しても契約金額からある程度の損失はカバーできると

算盤をはじいていました。そして、こういう時は何故か良い風が吹くのか比較的に他の

契約も取れだし暮れも押し迫った11月頃その事業を開業する事を決意しました。

そうした中、誤算にはたらいたのが「融資」です。自分で事業をした経験もなく、簡単に

借りられるものと高を括っていたら、まさかの「ゼロ回答」でした。保険の代理店という

のは業務委託契約になり個人事業主でもあるのです。

今思えば、融資の出し方自体も悪かったように思いますが、当時は金融担当者との

面接でも「あなたは、絶対うまくいかない」

とまで言われました。恐らく、NGワードを連発したのではないかと思います。

今もこの業界で仕事をしている事を考えると、金融機関の見立ては結果全く間違っていましたが

、いずれにしても「ない」ものは「ない」でした。しかも、この時期家内や親も含め身内には反対

もされると思い、一切内緒で事を進めていました既成事実をつくって、事後報告でいいやと決め

ていたのです。そして、運転資金などもほぼない状態でしたが、

これも当面は保険の仕事と2足のワラジでしのげば何とかなるだろうという甘い資金計画でした。

それでも、開業するのに後100万程足りなく、最後はサラ金巡りでもして調達するしかないなと

思い始めていた頃です。

もはや、開業に向けて物件なども決めておりお金が湯水のごとく出ていく状況でした。

もはや、運営をしっかりするというよりは、開店する事が目標になっていたような

状況です。そして、事業は事業、競馬は競馬という流れでお金がないながらも、当時

競馬は大きなレースだけはしていた状況です。そして、忘れもしない11月の暮れの

ジャパンカップの日がきました。なけなしのお金1万円を握りしめ、前売り馬券を

馬連3点として投入していました。そのJCは19回目でした。今でこそ、日本の馬が

JCでは席巻していますが、まだこの回あたりは外国馬と日本馬はイーブンないし

外国馬の方が少し成績が良かった頃でもあります。今もですが、欧州の競馬は

芝が重く日本の馬場は軽いという性格もあり外国馬でもアメリカ、豪州あたりが

軽めの馬場で活躍するという事は、なんとなく頭にありました。しかしながら、JC

直前の凱旋門賞をつかってくる馬も多くいて、どうしてもそちらの実績に惹かれる事

あったりもします。そんな中でむかえた19回目のJCは、凱旋門賞を勝ったモンジュー

一番人気でした。私は、前年菊花賞後にJCにトライして3着であったスペシャルウィークを

に考えていました。秋の天皇賞も勝っており、2番人気に推されていました。この馬は、

ダービーを勝っている事からも、東京の2400mがベストの舞台と考えていました。

鞍上は、その時期はダントツの武豊です。勿論、海外からもデットリーやペリエなど

一流騎手が首を並べていましたが、そこは日本人びいきです。このスペシャルウィーク

との馬券の相性はよく、前年のダービーでも万馬券をゲットしたものでした。

そして、相手筆頭候補はどれも欧州系の馬であり1頭香港から参戦していた馬がいました。

当時、まだ香港競馬はマイナーイメージもあり、参戦してくる馬もほとんどいなかった

ように記憶をしています。しかしながら、タイムなどを見ると非常に日本の馬場に近い事が

わかりました。その馬は14頭立て12番人気のインディジェナスでした。騎手は今ではホワイト

騎手というのは名騎手ですが当時は名前すら知りませんでした。いずれにしても、この馬との

馬券をを厚めに日本馬2頭への3点買いを決めていました。特にオッズは気にせず買っていました。

結果は、スペシャルウィークが問題なく1馬身以上差をつけ勝利し、2着はハナ差で

インディジェナスが入り馬連23,000円という高配当になりました。

これによって、事業の不足金がほぼまかなう事ができ無事開業となったのです。

人生どこで何があるかわからないものです・・。その後、1年半ほどは保険の仕事を

併業していました。事業自体も軌道にのった事から保険の仕事を

辞めその事業に専念をする事になりました。結果、今は雇われの身ではありますが、

開業をした事業と同業種の仕事をずっと続けています。保険会社には、結果5年以上

在籍をした事にはなりますが、20代に苦楽を共にした仕事でもありその後の人生の

キッカケづくりにもなりました。

こんな形で、私の20代は幕を閉じ苦悩の中から養われた力が身についたのではないかと

今でも思う事が度々あります。「若いうちの苦労」はやはり無駄にはならないと実感する

ところです。

 

 

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