叱りの価値とは

天邪鬼な考察
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こんにちは、escapeです。

最近は、パワハラの問題などもあり叱る方も色々な事に気を

つけてしないといけない時代になりました。

昭和世代というのは、学生の頃から鉄拳制裁も多くあり会社に

おいてもパワハラだらけではなかったのではないでしょうか。

特にブラック企業に勤務となればその経験も多くなり、私自身も

その辺は多く経験しています。しかしながら、少々厳しい叱りも

愛情表現の一つという捉え方もなくはないです。私も今振り返れば、

褒められたことよりも「ガツン」と叱られた事の方が、今でも印象深く

残っておりますし、後々自分の不甲斐なさからという事で気づく事も

あります。意味もなく、怒鳴られまくるというのは理不尽ではありますが

一定の原因があって𠮟られることは私は必要だと思います。

これは、上司部下、生徒教師という関係だけでなく、顧客側とも喧嘩や

怒鳴られるという事はよくある話でもあると思います。その場合は、

パワハラにはならないまでも、そういう事を経験しているだけでも

顧客に育ててもらったなどという話があったりするのは、

その辺があるのでないでしょうか。むやみに、喧嘩をうったり

クレームをつけたりという事はつまらない事でしょうが、「本質的な叱り」

というものは、自己の成長に繋がると思います。

従って、私も通常の人よりはメンタルは強い方だとは思います。

それが身についてくると、この場で「こういう事を聞く」とか「人に意見をする」

とかというのを苦手な人は多いと思うのですが、できるようになってくると思います。

逆にそれができない人は、人畜無害の「つまらない人間」になってしまいます。

以前、今活躍のひろゆきさんが、彼も色んな所で忖度なしで発言し時には炎上を

していますが、そういう事ができる事が逆に重宝されているのではないでしょうか。

通常は、この発言をすれば降ろされるから発言しないでおこうなどという気持ちも

利害は彼にはないので、自由に発言をしているのだと思います。

後は、当然若い頃は叱られる機会の方が圧倒的に多いのですが、歳をとるにつれ

段々叱る側の立場になったりもします。これは、これで実は感情に任せているだけ

でなく、いろいろな事に配慮しながら叱っている事も多く気づかされる事もあるので

ないでしょうか。

私が、なぜこのテーマで書いているという事であれば、きっかけは

つい日曜日にとある厳しいある先生から私は叱責を受けたのです。

私も、年齢的にも最近人に怒鳴られたという記憶はあまりなく非常に衝撃的な

光景ではありました。勿論、こちらの不手際もあり注意され然るべき部分はありま

した。そのこと自体は、私の方でも悪い部分があったので指摘されても当然であります。

この先生の凄いところは、一応50名ほどいる前で一喝したのです。

恐らく、叱る立場で言えば場の空気も壊すし、後で一段落した時に個別に注意すれば

と通常はなるはずです。しかしながら、見事にまわりがドン引きするトーンで怒鳴り

散らしました。私は、注意を受け皆の前で謝罪をした格好となりましたが、それに

恨みも何もありませんでした。むしろ、こういう場でも忖度なしで注意をする凄い人なんだと

感心したくらいです。実際、その方の実績はやはり他者とは別格なものがあり、ある種の

カリスマ性を持った方です。その場では、少々自分では格好の悪い存在とはなってしまい

ましたが、この場所で目一杯叱ってくれたという事は、私にとってはお世辞抜きに

勉強になった部分でもありました。恐らく、記憶としてもしっかり刻み込まれたもので

もあるので、一概に「叱られる」というのはネガティブな要素だけではないとも

感じました。そして、その方の素晴らしいところは一段落した時点で私も再度

挨拶に伺い、ニコッとした感じで全くさっきは何もなかったかのような振舞いを

したのです。その辺も、シコリをつくらない配慮なのか素晴らしく思いました。

「叱られた」事に対して、自分に何が残るかが「価値」ではないでしょうか。

 

 

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