こんにちは、escapeです。
テレビ離れがすすむ昨今ですが、昭和においてはテレビの存在が絶対的でした。
特に私の年代ですと1980年代が中心となりますが、その中でテレビの主軸を
担っていたのは「野球」であり「巨人戦」です。勿論、歌番組やドラマ
やバラエティで人気のあるものは多くありました。何故、野球なのかというのは
、まず時代背景的にテレビは1家に1台が基本の時代であり、今のような1人1台という
感覚ではありませんでした。そして、私の頃は団塊ジュニア世代でもあり兄弟
も2人、3人は当たり前の時代でした。その中で、今は死語になっていますが
「チャンネル権」なるものがどこの家庭でもありました。それを当然、握っている
のは父親の場合が多く、そこから巨人戦に繋がるラインです。1980年代の巨人戦の
平均視聴率は20%以上であり、特に優勝が絡んでいる年などは高いのではないでしょうか。
そんな中、金曜日の20時というのは私が小学6年頃なので1981年頃ですが、まず日テレは
野球中継と「太陽にほえろ」という刑事ドラマが人気でした。ここから出た俳優の松田優作は
、私は大ファンであります。しかしながら、小学生にはあまりこのドラマは魅力的では
なかったです。TBSでは「金八先生」が始まったころです。ご存知のように、金曜八時に
やるから金八となったようですが、こちらもヒットドラマです。まだ、小学生な事もあり
リアル感がなくパート2をよく観るようになりました。そして、テレビ朝日のプロレスです。
この時代は、馬場率いる全日本プロレスと猪木率いる新日本プロレスという2大団体での
状況でした。また色々ここから枝分かれをするのですが、それはまたの機会に。
猪木の方はストロングスタイルという事で、馬場のプロレスを対立構造におき
「過激なプロレス」で売り始めていました。ホーガンやハンセンのような外人レスラー
と猪木自身も自分の地位を高めるため異種格闘技戦という事で他のジャンルの格闘技
と試合をしていました。この頃は理解していなかったですが、プロレスには基本
「アングル」という構図があります。団体内での対立構造を作り、シリーズ化して
最後に国技館や武道館でその頂点対決をするような構図に持っていく事が多かったのです。
猪木の団体は、これに実質ナンバー2の「藤波と長州」の名勝負数え唄というような
人気対戦カードがあったりしました。そして、実況はおなじみの古舘伊知郎が実況しており
本当に例えやニックネームのつけ方が、コピーライターのように秀逸でした。
例えば、アンドレザジャイアントという2m30㎝ほどある巨人レスラーに対しての形容は、
「人間山脈」であったり、入場シーンであれば「1人民族大移動」と称したり
「現代のガリバー旅行記」というようなキャッチフレーズをつけていました。
間違いなく、プロレスの実況の古舘と競馬の実況の杉本は名アナウンサーでは
ないでしょうか。そして、この時期に圧倒的な人気を誇ったのが「タイガーマスク」
です。基本はメキシカンプロレスのルチャからきているプロレスなのですが、動きの
キレや速さなどが過去に観た次元のものでなく、驚きとともに虜になってしまいます。
YOUTUBEなどにあがっているものあり、今観てもその動きは素晴らしいと思ってしまいます。
当然、漫画のタイガーマスクをモチーフにつくられたのですが、当初は誰も期待していなく
新日本プロレスが「変な事やってるな」位の思いで観ていた人が大半で、期待値は限りなく
ゼロに近かったのです。マスクの下は佐山サトルというレスラーで当時は海外修行をして
いて無名の選手に近かったのです。本人も確か数試合だけとの約束でヨーロッパから帰国
し、すぐに戻る予定でした。マスク自体も製作が間に合わず、本当にデビュー戦のマスクは
パツパツの無理やり間に合わせでつくったタイガーマスクでした。そこにマントをまとい
出てきた時には笑い声がおきるくらいの状況でした。しかしながら、トップロープにヒョイ
と登ったあたりで歓声がではじめる感じでした。デビュー戦の相手はダイナマイトキッドで
キッド自体の動きもそれなりにスピーディではあります。そして、試合が始まると跳躍力や
動きのスピードや見た事のない技などで完全にこの試合で全国民を魅了し
漫画を越えた実在とまで言われていました。
翌日の学校では、この話でもちきりだったのを覚えています。因みに古舘はタイガーマスクを
「四次元殺法」と形容していました。それぐらい、場外も含め、縦横無尽の動きが多かったです。
この佐山サトルという選手は、人気絶頂の2年半ほどでプロレスを辞め格闘技の方へ転身して
いくのですが、間違いなく「天才」であり、プロレス界としても大きな「財産」ではありま
した。当時のテレビで1時間は、メインイベントは猪木であり試合も基本は後半猪木で、
前半はタイガーの試合という構成でしたが、恐らく猪木よりも人気が高かったのでは
ないかと思うほど子供の心を鷲掴みしていました。
実際、この頃のプロレスは巨人戦並みの平均視聴率が20%を
越えていました。というように、昭和の金曜日の20時~21時の枠は視聴率が高い番組
の激戦でも有り、熱い昭和のテレビの時間帯だったと思います。
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