こんにちは、escapeです。
最近は努力も才能の1つという考え方がでてきています。
努力を継続的にできるかは才能ということなのです。
どうでしょう、皆さんこれについては私は非常に違和感
があります。
才能が遺伝というのは理解できます。そして、才能のある人が
努力するから才能が開花するというのも理解できます。
しかしながら、努力というのは片方では、才能がない人が
距離をうめる行動でもあるはずです。ここを否定してしまうと
全て、生まれ備わったものになってしまうと皆諦めモードに
なるのではないでしょうか。そもそも、この遺伝要素が高い
というのは、アメリカの大学での研究結果によるものです。
一卵性双生児にクラッシクの楽器を違う環境でやった場合の
上達具合を調べるというものです。
当然、双子ですから遺伝的にはほぼ同じです。違う環境という
のは裕福な家庭環境と貧しい家庭環境に送り一定期間見たそうです。
するとどの環境でも、努力ができない双子はやはり上達せず
努力ができる双子は上達したという結果からでたような結論です。
そもそも、私は楽器にしたこと自体もどうかと思います。ある程度
普通に努力すればできるかどうかを実験データにすべきではなかったかと。
上達したかどうかは、音楽に興味がどれだけあるかにもよる部分は大きい
と思うのです。私も小学生くらいの頃、たて笛を練習してもあまり上手
になりませんでしたが・・。でも、運動はある程度練習に比例してうまくも
なったりなど・・。従って、このような実験から努力は遺伝というのは早計な
気もします。もっと言えば、大半の人は働いている訳ですから誰でも普通の
努力はある程度できるものではないかと私は思います。
このような事を流布すれば、単に努力しない言い訳をつくる一因になる
のではないかと懸念してしまいます。勿論、努力でどうならないことも
多くあるのも事実です。しかし、だからといって努力を何もしないというの
は、単に怠けものを量産する事になるだけではないでしょうか。
努力をしない言い訳だけを努力するみたいな事にもつながったりも・・。
ただ、競馬においての努力もことごとく裏切られるものです。
私もじっくり、時間をかけたレース程外れやすく安易に買ったレースの
方が的中率が高かったりもしますが・・。
とはいえ、的中は別にしても予想を張り巡らせる楽しみはありますが・・。
いずれにしても、何にしても「努力」自体は、自身の捉え方でいくらでも
私はできると信じてはいます。
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