恩師との再会 PART3

徒然なるままに
ポチっと応援お願いします!

最強競馬ブログランキングへ
PVアクセスランキング にほんブログ村

こんにちは、escapeです。

なぜ、とある先生が私の恩師という存在になったのか。

前回の記事はこちらから

勉強を続けていた頃、調度夏休み前に先生から「家にクーラーあるのか」と聞かれ

正直、お店にはついていましたが自宅の部屋にはクーラーはついていませんでした。

「ないです。」と答えたところ、「学校クーラーあるんだから夏休み自習に来い」と

先生からの提案がありました。調度、先生も柔道部の顧問もしており学校に来ないと

いけないこともあり、私も夏休みリズムを崩すよりはと普段と同じような登校時間に

学校へ行きました。同じように、自習に来ていた生徒が違うクラスから3,4名いました。

今まで、受験の話などを同じ学校でしたこともほとんどない中で、なんとなく同志というか

仲間ができたのを嬉しく感じた思いはありました。この時期には実質ラジオ講座はほぼ、

私しか続いていない状況でしたが、それぞれ自分なりの参考書を皆持ち寄り自習をして

いました。先生も1時間に1度ほどは、柔道部の練習の合間に気にかけ教室に顔を出し、

汗だく状態で「何か質問あるか、お前ら」と聞き、皆質問すると怒られるのを悟っているのか

「大丈夫です」との返答を1日に何度か繰り返していました。そんな中、予備校に通っている

生徒もいました。当時、社会の選択科目が教科書が薄いという理由で政治経済というマイナー

な科目を選択していました。その分参考書も少ないなどのビハインドがありました。

実際は、覚えるというより理解をしないといけない部分も多く、特に経済分野を悩んでいました。

ラジオ講座でもやっていない科目でしたので、秋から単科で予備校に通おうと思っていました。

勿論、バイト代で貯めたお金で行こうと考えていました。

どの先生というのも、予備校に通っている生徒のパンフレットから比較的に評判が良さそうな

講座を選択をすることにしました。夏は朝から夕方5時頃まで勉強をして、たまに先生からも

帰りに牛丼などをご馳走になったのを覚えています。確か、お盆休みもなくずっと学校で

自習をしていました。そして帰ってからも夜7時頃から深夜までトータル1日10時間以上

勉強をしていた夏ではなかったでしょうか。生涯で一番勉強をしたように思います。

使用していた単語帳はすでにボロボロになり、勉強の跡がうかがえる状態でした。

このような一見最初は、非効率な勉強のように思えましたが、自分的には安易に

人に聞かない事考えるというプロセスが身につき、かえって記憶に残るようにもなりました。

やはり、人間与えられているものに頼っていると、依存心が強くなり伸びない原因のようにも

思いました。結果、先生の指導がやや変わったものではありましたが、それで力がついた事には

間違いありません。秋に突入する頃には、この夏の頑張りが成果になって表れてきたところでも

あり飛躍的に成績を伸ばすことに繋がりました。やった事が成果につながるというのは、嬉しい

もので勉強がどうのというよりもこの点が自分にとっての自信になりました。

秋からの予備校の方も、とにかく自腹で講義をきいているので一言残らず聞いて帰ろうと思い

講義にあたりました。当時はカセットに録音をする生徒もいましたが、当然私の家にそんな

高価なものはなく「集中して聞く」というだけです。90分間集中して聞くので、講義が終わる頃に

は、疲れがドッと襲ってくるのがわかります。しかしながら、この「聞く」という姿勢

ラジオ講座で知らぬ間に身についていたのも大きかったです。

この予備校の先生も素晴らしく、板書は一切せず相当な早口でまくしたてるように解説を

していくのですが、そこがまた刺激にもなりました。予備校は週に1回ですが、自宅に帰る

と忘れないうちに、メモで残していたものをノートにまとめなおします。この作業が、また一段

社会の成績を伸ばす事にも繋がり、最終的には社会が一番の得意科目になっていました。

そんな中、追い込みの冬がきました。正直、この期間の記憶があまりありませんでした。

親は、両親とも中学校と小学校しかでていなかったので、今まで「勉強をしなさい」

言われた記憶がありませんでした。恐らく、2人とも勉強の重要性を理解していなかった

のもあると思います。そんな中、この時期私も最低限の食事と風呂以外は全て勉強にあて

いていたので日によっては、20時間ほどしていたような時もありました。恐らく、意識も

朦朧としている中、それまで家族の中では比較的にしゃべる息子がダンマリとなり、顔

も悪くそんな生活を繰り返していました。心配した親も

「そんなに勉強しないと受からないのか」とか「多少、休んだ方が良いんじゃないの」など

勉強を手休めする話が出ていたくらいです。

当時は、「一浪」を「ひとなみ」と呼んでいたくらい浪人生が多く、どこの大学も半分程度

は浪人生の時代でした。競馬に例えるならば、菊花賞を勝った3歳馬の現役生が有馬記念で

古馬の浪人生と対戦するようなものです。

それでも、競馬は斤量のハンデがあり今では3歳馬が有利になるような

感じでもあります。いわばそのような構図での受験なのですが、私の中では浪人という

選択肢はありませんでした。とにかく、どこでも受かればそこに納まる覚悟で勉強を

していました。そして、受験できる学校は2校でした。1校はすべり止めに、そして1校は

本命にと。幸い、大学の学費はこの頃バブルの恩恵もあり、小さい飲み屋もたたんでマンション

にする計画で動いていました。その関係で借入も多くでき、学費の問題は一旦クリアできたの

です。しかしながら、後にこのマンションが私の人生に大きな負担を残す事になるのですが、

この時期はそんな事が起きるとは知る由もなかったです。

「湯島天神」に学業の神様がいるなんて事も知らず、特に初詣なども行かず自分の使い

古した「単語帳」とボロボロになった「辞書」をお守り替わりに受験に持っていた

記憶があります。そして、合否の結果は残念ながら本命の学校は不合格に終わり、

すべり止めの大学に進学する事になりました。いわゆる、中堅私大ではあります。

結果はどうあれ、自分の中では1年頑張れたというところもあり、後悔はありませんでした。

恩師の先生が私を覚え続けてくれた事の1つに、先日会った際にも「後にも

先にもラジオ講座を続けて結果出したのは、escapeちゃんしかいなかったよ」

と言われました。私にはそれしか「すがれるもの」もなく、きっとどこかで

小さい頃から「水商売の子供」という偏見の中でのコンプレックスが勉強を

する原動力になったのだと思います。別に一流大学に進学したわけでもないの

で、そこまで偉そうには語れませんが自分の中では「やりきった」充実感

あったので、それが自分の「自信」に繋がったところはあります。

その後の人生で、何度も痛い目にあっていますが、その都度立ち直れたのは

この日の自分なりの「成功体験」から支えられていたものはあった事は間違いないのです。

そんな、人生の礎を受験勉強を通して教えてくれたのは、間違いなく先生のお陰でもあり、

今でも私にとっては「恩師」でもあり「恩人」でもあるような存在です。

恐らく、この受験の経験で学んだ事は多くありましたが、科目の知識自体

は断片的なものでもあり、大したものではないと思います。それよりも

「継続していく重要性」「非効率なことも効率に転ずる」

という事を大きく学んだのではないかと思います。

従って、久々の恩師との再会は自分の人生をフラッシュバックするような

時でもありました。お互い元気な姿を見せることができ、最高な「30分」の時を

過ごすことができました。偶然にも、ラジオ講座の講義時間と同じ時間でしたが・・。

 

 

\ランキング参加中/
ポチっと応援お願いします!
ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 競馬ブログへにほんブログ村 競馬ブログ 競馬コラムへにほんブログ村 ベンチャーブログ 起業・独立支援へ

コメント

タイトルとURLをコピーしました