こんにちは、escapeです。
昨日は、昭和名曲という番組を少し観てしまいました。この手の番組は
よく放送しているのですが、つい観てしまう事が多く懐かしく思ったり
します。そして、昔の芸能人はとても大人っぽさがあるのに驚きます。
どこか、落ちつきやいわゆる芸能人オーラがでているのが、今と違う
点でしょうか。さて、今は騎手も海外競馬に参加したり地方所属の
騎手も中央競馬のレースに参戦したりと非常に活躍する場が広がっています。
しかしながら、私が競馬を始めた頃というのは「壁」が存在して
いました。まず、中央競馬のレースに地方競馬の騎手が乗る事は稀でした。
同時に外国人騎手もJCは別にしたら、騎乗する事もありません。
また、地方競馬自体も例えば大井競馬など南関東競馬に他の地方所属騎手が
乗ることもほとんどありませんでした。それだけ、閉鎖的な部分が大きかった
と思います。一般的には、引退しました安藤勝己騎手が笠松競馬から中央競馬
に移籍して、その道を切り開いたパイオニアと言われています。中央競馬でも
活躍して地方競馬所属の騎手の力量をみせたものでした。
さながら、メジャーリーグの道をつくった野茂選手のような感じでもあります。
ただ、知っている人は少ないのですがこの安藤騎手の10年ほど前に果敢に
海外競馬にチャレンジをしていた騎手がいました。騎手は、道川満彦騎手です。
今は無き島根の益田競馬場に所属をしていた地方の騎手です。益田競馬場は
当時、日本で一番小さい競馬場と言われていました。そこで、道川騎手は
リーディング騎手でもありました。しかし、地方競馬のトップ騎手でも
当時は年収400万位で収入的にも厳しいものはありました。そもそも騎手
は、賞金の5%がメインの収入であり賞金自体が地方ではかなり低く設定も
されています。そんな中、活躍の舞台を海外に求めていきます。
海外で騎乗するには、これもハードルが高くある程度日本でのお墨付きをもらって
いかないと騎乗ができない状況でした。そんな中、地方競馬の調教師などがそれを
好意的に受け止め協力をしてくれる人も当時はいなかったのです。それでも、道川騎手は
はたらきかけを行い、ようやくマレーシア、シンガポールでの騎乗が叶いました。
時は1980年代後半です。また、当時のシンガポールの競馬などはスローペースからの
差し、追い込み決着が多かったようです。地方競馬は基本、逃げ、先行スタイルなので
そのレーススタイルで参戦したところリーディングに名を連ねるほど勝ちました。
発馬の鮮やかさから、「カミカゼスタート」と評されたようです。
JCにも一度参戦のチャンスがあったようですが、直前に馬の故障もあり参戦が
できませんでした。もし、出場していればどんな気持ちでJRAの舞台にたった
のでしょうか。当然、「見返してやる」という気持ちは強かったのではないかと
思ったりもします。
活躍の舞台も香港などにもひろげ、騎乗をしていました。そんな中、1990年突然
「八百長疑惑」ということで報じられてしまいます。東スポが1面に大々的にその
記事を書いていました。当時、私もその記事を目にしたのを覚えています。
地元で黒いシンジケートと道川騎手が関係がありというような黒い噂をたてられました。
実際は、裁判でも事実無根という事になりこの記事は全くの捏造記事という事が発覚
しました。とある、日本の馬主で道川騎手を良く思わない人が、このような噂を勝手に
リークして記事にしたというものでした。しかしながら、裁判で決着するにも時間も
かかり、その頃から精神的ダメージもあり成績も段々下降していく事になりました。
また、その後JRAの騎手試験を受けるも3回挑戦するもいずれも不合格でありました。
そこから、また海外に移り騎乗するも厳しく引退し一旦、海外での調教師に転ずるも
管理馬が思うように集まらず結果再び騎手に復帰します。ドバイなどで騎乗もするも
結果引退を再びする事になりました。道川騎手は、騎手では10か国で騎乗をしている
事になります。当時の環境から、活躍の舞台を海外に移すだけでもすごい事であり、
色々な壁を乗り越えていった素晴らしい騎手だと思います。
ほぼ私の現在と同じ年ではありますが、52歳という若さで白血病のため死去されました。
色々な不利な条件に果敢に挑んでいった騎手として、パイオニア的な騎手では
なかったのではないでしょうか。
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